

太田道灌の子孫(四代目の孫)である太田資元は、享禄年間(1528~1531)に肥前国河副庄太田を領したと云われます。その時代、ここ肥前地域は少弐党でしたが、まさに戦国時代を迎えようとしていました。
太田氏は、徐々に勢力を強め、与賀・川副を領していた龍造寺家兼に帰服し、龍造寺の姓である藤原に改めました。家兼は、対抗していた小田氏(小田城)の前衛として、太田の地に城を構築させました。それが、田中城(太田城)です。


太田道灌の子孫(四代目の孫)である太田資元は、享禄年間(1528~1531)に肥前国河副庄太田を領したと云われます。その時代、ここ肥前地域は少弐党でしたが、まさに戦国時代を迎えようとしていました。
太田氏は、徐々に勢力を強め、与賀・川副を領していた龍造寺家兼に帰服し、龍造寺の姓である藤原に改めました。家兼は、対抗していた小田氏(小田城)の前衛として、太田の地に城を構築させました。それが、田中城(太田城)です。