


脊振山修学院は、寺名を積翠教寺といい、仏教の霊場として顕蜜の究学修法の道場としたと伝わります。
修学院(学問所)と改称したのは、慶長5年頃(1600)、佐賀藩祖・鍋島直茂公の命により再興され、京都の曼殊院門跡の末寺となって以来、藩主の手厚い保護を受けてきた天台宗の由緒ある寺です。
肥前国の最北東に位置するため、佐賀城鬼門除け・肥前国安穏祈願寺の道場と定められました。



脊振山修学院は、寺名を積翠教寺といい、仏教の霊場として顕蜜の究学修法の道場としたと伝わります。
修学院(学問所)と改称したのは、慶長5年頃(1600)、佐賀藩祖・鍋島直茂公の命により再興され、京都の曼殊院門跡の末寺となって以来、藩主の手厚い保護を受けてきた天台宗の由緒ある寺です。
肥前国の最北東に位置するため、佐賀城鬼門除け・肥前国安穏祈願寺の道場と定められました。