

鍋島茂治は、龍造寺家臣団として島原や肥後に出陣しました。後の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、兄・茂正と共に鍋島勢の中軸として奮戦しました。
特に、加藤清正勢が苦境に陥った時は、清正を助けて功績を挙げました。この事が縁で、清正からの懇望により、茂治の長女を清正の家老に嫁入りする約束ができました。ところが帰陣後、鍋島勝茂の代となると他国との縁組は御法度となりましたが、肥後方からは使者が来て約束通り、長女を嫁として連れて行かれました。
おどろいた佐賀藩では、成富茂安が肥後に使わされ長女は帰国させられました。そして、茂治は、佐賀藩の法度を破ったとして切腹しました。嘆いた長女は、その後を追い自害しました。さらには、主の切腹を聞き伝えその家来・18人も追い腹しました。
その33回忌の時に、この供養等が建てられ、久間の人々はかつての城主を末永く祀りました。今でも地域の人々は、親しみを込めて「館中さん」(たっちゅうさん)と呼びます。




