
嬉野宿・追分
明元寺を過ぎると、柄崎道(武雄)と塩田道との追分に出ます。これより、北東へ向かい塩田へ向かいます。 「太田南畝・小春紀行」には次のような…
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明元寺を過ぎると、柄崎道(武雄)と塩田道との追分に出ます。これより、北東へ向かい塩田へ向かいます。 「太田南畝・小春紀行」には次のような…
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上使屋とは、嬉野宿を通過する大名や長崎奉行、藩吏などが宿泊する蓮池藩営の施設でした。 かつては、長崎街道沿いの豊玉姫神社脇にあってその裏…
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瑞光寺の山門横には、樹齢800年と云われる楠木があります。嬉野町の最も古い樹木のひとつであり、歴史的文化的にも価値の高いものです。
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長崎街道・嬉野宿には、本来、蓮池藩が運営する上使屋がありましたが、狭く損傷もありました。 そこで藩の援助を受け、明和2年(1765)から…
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瑞光寺は、禅宗臨済南禅寺派に属し応安2年(1369)時の領主・嬉野氏が本寺を創建し、鎌倉巨福山建長寺の住職・石室善玖禅師によって開山され…
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嬉野宿の東西端入口には、それぞれ町木戸が構えられ構口と呼ばれていました。 この構口は、平時は監視人もいなく扉もない木戸でしたが、非常時に…
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江戸時代の嬉野地区は、佐賀本藩と蓮池支藩によって治められていましたが天明元年(1781)に両藩に境界紛争が起こり、4年の歳月を経て本藩の…
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「豊玉姫神社由緒書」によると、豊玉姫神社は現在地よりも南の長崎街道あたりにありました。さらに温泉が出る湯壷と呼ばれる源泉も神社境内にあり…
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豊玉姫神社のお遣いは、「なまず様」です。 嬉野川を支配し、郷の守りについていて国に大難ある時には、六尺の大なまずが現れて神託を告げると語…
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豊玉姫神社は、天正年間(1573~92)に兵火の為に消失しました。 その後、元和年間(1615~24)には社殿が再建され、蓮池藩主・鍋島…
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西構口跡を過ぎると、豊玉姫神社の参道があります。 かつて、豊玉姫神社は嬉野宿中央の上使屋の近くに位置していました。
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藩政時代、嬉野町は平野部を蓮池支藩が、周辺の山間地を佐賀本藩が領有としていて長崎街道が通過する嬉野宿は、蓮池支藩の支配地でした。 当時、…
記録を読む郷土史探訪家・吉松潤二による、写真・資料・日々の探訪の記録です。記事の投稿日と、写真や資料が扱う年代は、それぞれ分けて記載しています。
資料・写真の出典や補足は、各記事の末尾からご確認いただけます。