
◆龍造寺隆信と威徳寺
天文22年7月25日、鹿江崎に上陸した龍造寺隆信は、鹿江兼明に案内され7月27日には、ここ「威徳寺」で再挙の旗揚げを行った。 龍造寺隆信…
記録を読む佐賀を歩く。
時を、たどる。
街の記憶と、人の営みをたどる。
写真と資料、日々の探訪から、この土地の物語を綴ります。
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佐賀の歴史や街の記憶を、気になるテーマからお楽しみください。
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天文22年7月25日、鹿江崎に上陸した龍造寺隆信は、鹿江兼明に案内され7月27日には、ここ「威徳寺」で再挙の旗揚げを行った。 龍造寺隆信…
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龍造寺隆信が、上陸するを水先案内したのは、地元漁夫の園田二郎兵衛と犬井道新兵衛であった。 無事、隆信が上陸した後、二人はこの土地の状況を…
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龍造寺隆信は、追われた水ヶ江城を奪還すべく筑後一ツ木(大川市一木)より船で発ち、肥前へと向かった。 しかし暴風雨にあい、柳津留(現・小城…
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「佐賀の乱」と言えば、江藤新平の「征韓党」と島義勇の「憂国党」である。 しかし、もうひとつ「中立党」という組織も存在した。戊辰戦争で武勲…
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「征韓党」が正式に名乗りをあげたのは、明治6年12月23日、佐賀城下白山・中町の「板谷食堂」と言われている。江藤新平以下、25名が集結し…
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「憂国党」は、佐賀城下南に位置する「宝琳院」を本拠地とした。そのため、別名を「宝琳院会」、「憂国大社」、「南組」などと呼ばれた。 「憂国…
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明治7年2月、「征韓党」が本拠地を置いたのが、佐賀・与賀町の「延命院」である。 「征韓党」の編成は、以下の通り。 ・主 宰 江藤…
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福地 常彰・・・天保4年(1833年)生、明治7年(1874年)没 福地 常彰は、佐賀藩士の中島家に生まれたが福地寿右衛門の養子となった…
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副島 義高・・・文政10年(1827年)生、明治7年(1874年)没。 副島 義高は、島義勇の弟として生まれ、共に弘道館で学び成人後、副…
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中島 鼎蔵・・・嘉永2年(1849年)生、明治7年(1874年)没。 中島 鼎蔵は、佐賀藩士中島祐衛門の次男として生まれた。弘道館で学び…
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香月 経五郎・・・嘉永2年(1849年)生、明治7年(1874年)没。 香月 経五郎は、佐賀藩士香月三之介の長男として佐賀郡早津江で生ま…
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山中 一郎・・・嘉永元年(1848年)生、明治7年(1874年)没。 山中 一郎は、佐賀藩士山中四三郎の長男として水ヶ江に生まれた。弘道…
記録を読む郷土史探訪家・吉松潤二による、写真・資料・日々の探訪の記録です。記事の投稿日と、写真や資料が扱う年代は、それぞれ分けて記載しています。
資料・写真の出典や補足は、各記事の末尾からご確認いただけます。